友人が大切だということを時々忘れることがある。いつも一緒にいればなおさら。でも、いつ会えるかわからないとなると、いとおしくて私の心は、なにか自分 のコントロールできないものに押しつぶされているんじゃないかと思うぐらいせつなく、そしてさびしい。その時初めて、彼らが私にとって、とてもかけがえの ない人だったと気づく。
8月7日 夜 京都駅にて
新幹線に乗り思い出す。
私がまだ日本で社会人をしていた時のこと。たしか1997年の秋ごろから翌年の春ごろまで、私は当時の彼に会いに月に2度は金曜の夜に最終のぞみ に飛び乗り京都へ、そして日曜の夜に東京行きののぞみに乗り・・・。その頃の帰る新幹線の中でいつも感じた、あの気持ちをおもいだす。やりきれないという より、言葉に表せないなにか静かに重くそして暗い、あの気持ち。
あれから11年。当時の彼を懐かしく思うだけでなく、当時の彼に対して感じていたあの”何か”がよみがえる。京都の彼だけでなく、その何かを持ち 合わせていた人が過去に何人かいた。彼らを今も好きだと言っているのではなく、当時の彼らがいつも用意していた”何か”を懐かしく思うだけのこと。その” 何か”は、私のためだけに用意されたものであって、目に見えなくて言葉にもならない、そんな”何か”を彼らはいつももっていた。それが何だったのかは今で もわからないけれど、
私を見送る彼らをみて、彼らもあの”何か”を持っていたと知る。今いる、今あるこの状況がもし現実でなかったらどんなに良いだろうと後悔の気持ちで一杯になった。これから何処にあの”何か”を求めればよいのだろう?これは現実なのだろうか?
それを確かめるかのように私はまずい煙草を何本も吸いつづける。自分がここにいることをたしかめるかのように。そしていつしか、これがさびしさという感情であることに気付き、私はうろたえる。